落ちこぼれの私がTOEIC925点を取れた理由とは?

【マルチリンガルへの道①】バイリンガルが帰国子女トライリンガルになるまで

この記事を書いた人
わた
マルチリンガール

10以上の言語と戯れるマルチリンガル(多言語話者)帰国子女。日本語とスペイン語のネイティブスピーカーで、英語はニアネイティブ。大学時代に交換留学生として1年間韓国へ留学。中高生の受験対策指導、社会人向け個別指導など英語講師としての指導実績多数。2020年からはオンラインで世界中の生徒に日本語を指導。TOEIC960点、スペイン語実務翻訳士。当ブログでは多言語学習や海外生活の記事を中心に執筆。最近はスウェーデン語にハマっている。

あけましておめでとうございます(^○^)

マルチリンガールわた (🐤@norinoricotton)です!

今年もどうぞよろしくお願い致しますm(_ _)m

ご存知のように、私はマルチリンガル(多言語話者)なのですが、元々はバイリンガルで、トライリンガルになったあと今のマルチリンガルになりました。

About usでも私の生い立ちについて軽く触れていますが、今回は、私が様々な言語に触れてきた環境やその経緯、また私の心境などを2回に分けてご紹介します!

言語学習、ひいては多言語学習のヒントになればと思います。

この記事はこんな人にオススメ

・どういう環境だとバイリンガルになるのか知りたい

・バイリンガルやマルチリンガルがどんなことを考えてるのか知りたい

・わたについてもっと知りたい😇

About us About us

誕生〜バイリンガル

愛知県にて名古屋弁の父と北九州弁の母の間に生まれました。

赤ちゃんの私が最初に発した言葉が何かは定かではありませんが、

母いわく、好物のリンゴを指して、

「ごー!ごー!!🍎」と叫んでいたそうです(笑)

2歳のときに親の仕事で南米ペルーに渡りました。

ペルーの公用語はスペイン語なのですが、現地の幼稚園に入れられた私は、親がスペイン語の学習に苦労していることに目もくれず、瞬く間にスペイン語を身につけてしまいました。

家庭では日本語を、幼稚園のお友達や現地の人とはスペイン語を話していました。

ただ、自分が日本語とスペイン語のどちらも話せるということ、またどちらの言語を話しているか、などの意識はしていなかったようです。

これも母から聞いたことなのですが、相手の顔を見て、相手が日本人のときは日本語を、それ以外のときはスペイン語を話していたそうです。

あるとき中華レストランで働く同じ東洋系の顔をした中国人に、日本語で話しかけたのに、相手はスペイン語で話してきたときは、すごく混乱していた、というエピソードもあります。

とにかく、この頃一時バイリンガルでした

一時、というのは、このあとモノリンガル、つまりスペイン語をキレイまっさら忘れた経験があるからです。

「ん?ペルーってどこ?どんな国??」

という方もいらっしゃると思うので、こちらの記事もぜひご覧ください。

【黄金の国ペルー】ってどんな国?16年住んだ帰国子女が語るその魅力

一時帰国〜モノリンガルに

5歳のときに、1年間日本に一時帰国しました。

家族以外の大勢の日本人に囲まれた初めての経験です。

新たな環境で、私の日本語の語彙力は爆発的に増えましたが、それと同時に、なんとスペイン語を完全に忘れてしまいました😱

日本語だけを話すモノリンガルになったのです。

親は1年間のブランクの間、スペイン語を忘れないように必死だったようですが、私は特に何も考えず、日本語に浸っていたためです。

私はよくこの年齢の子供の頭を、「スポンジ」に例えます。

乾いたスポンジは周りの水を一気に吸収しますが、軽く絞ればすぐに流出してしまうのです。

バイリンガルであったのに、スペイン語を話す機会が一切なくなった私の頭は、「スペイン語は不要」と判断し、スペイン語を忘却してしまいました。

1年後ペルーに戻る飛行機の中で、私が、

「スペイン語でお友達の名前はなんて聞くの?」

と聞いた時、母はなんの冗談かと本気で思ったそうです😅

1年ぶりに会った友達は、おしゃべりな私が無口になってしまったのを見てショックだったようですが、親の心配をよそに、私のスペイン語は2、3ヶ月で復活しました!

そして、小学校1年生から3年生までの3年間、現地校に通いました。

この頃から、スペイン語話者の友達がいる場で、家族に日本語で話した内容を友達に訳したり、スペイン語非ネイティブである家族のスペイン語の間違いを指摘したりすることを通して、はっきりと「自分がバイリンガルである」という自覚はありました。



6年間の日本人学校

日本人学校、と聞いても、多くの方にはあまりピンとこないかもしれません。

日本人学校とは、日本の文部科学省が海外に住む日本人を対象に日本国内と同等の初等・中等教育を行う学校のことです。

全世界に100校近くありますが、2000人以上の生徒のいる大規模学校から、50人に満たない小規模の学校まで様々です。

私が転校したのは、ペルーの首都にあるリマ日本人学校で、在学当時は全児童生徒合わせて40人ちょっと、一クラス5人程度の小さな学校でした。

「日本国内と同等」というだけあって、基本的に日本の公立学校と同じ教科書を使用します。

当然、先生も生徒も、ほとんど日本人です。

①先生方の出身地が全国各地

日本各地の先生が希望して3年間赴任してくるため、北は北海道から、南は沖縄まで、全国から先生が派遣されます

ちなみに、私が小4〜中3までの担任の先生の出身地は、茨城、静岡、大阪、兵庫、山口、長崎、青森、千葉と、様々でした。

当然生徒の出身地も様々なので、日本人学校は日本各地の方言でごった返している感じです(笑)

②全児童生徒の名前をみんなが知っている

50人にも満たない児童生徒数なので、どの行事も全員参加せざるを得ません。

行事にもよるのですが、例えば運動会の場合は、白組と赤組の2チームに分かれて、中3二人がそれぞれの団長になります。

まだ1年生になったばかりの子供と中学生が一丸となって応援をする場面はなかなか微笑ましいものです。

1学年(5人ちょい)でできることは本当に限られているため、修学旅行や文化祭などの行事も、多くの場合、少なくとも2学年で行うことが多いです。

そのため、全児童生徒がみんなの名前を知っているのも、もはや当たり前のことです。

③海外ならでは

総合学習の時間では、学年にもよりますが、インカ帝国に関する学習の一環として遺跡などを訪問する課外授業や赤道直下に近いということから、日本とは違う天体観測の授業もありました。

修学旅行も、日本に行くわけにもいかないので、ペルー国内になるわけですが、天空の城マチュピチュや、ナスカの地上絵、大アマゾンのジャングルなど、なかなか壮大です。

未開の南米アマゾンでジャングル探検ツアー?《日本人学校の修学旅行》

以上のように変わった点はありますが、基本的にどのタイミングで日本に帰国しても困らない教育内容です。

そして若干話がそれましたが、日本人学校の6年間、わたは日本語しか使わなかったかというと、そうではありません。

学校では、よく保健室にお世話になったのですが、保健室の先生はペルー人でした!

この先生が大好きで、体調不良でなくても遊び(おしゃべり)に行っていたのですが←

そのときの会話はもちろんスペイン語でした。

また、親の仕事の関係で、ペルー人はもちろん、アメリカ人の友達や知り合いもいたので、当時は英語が話せる!というわけではありませんでしたが、生の英語に近い環境にあったのは確かです。

ちなみにそのアメリカ人との会話はスペイン語なんですけどね。



インターナショナルスクール時代 〜トライリンガルに

日本人学校は、先ほども述べた通り、初等・中等教育しか提供していません。

日本人学校に高校部はないのです。

通う生徒のほとんどは、親の仕事の赴任先として来るのですが、多くの場合3年程度の任期で帰国するため、子供が高校に上がるタイミングで帰国させるパターンが多いです。

ただ私の親の仕事は、幸か不幸か3年任期ではなかった上に、家族の事情で、高校進学のために私を一人で帰国させることができなかったため、結果的にインターナショナルスクールに通うことになりました。

これが、すーーーーごく嫌だったんですよね(笑)

今思えば、本当に貴重な経験ができた高校3年間だったのですが、当時の私は、日本にひとり渡って、いわゆる普通の高校に普通に進学したかったのです。

でも抗えるすべもなく、しかたなく行きました。

国際色豊か

インターナショナルスクールと言っても、基本的にアメリカンスクール🇺🇸といった感じで、先生の9割以上がアメリカ人、授業は全て英語、教材も全てアメリカのもの、教育もアメリカ式でした。

インターナショナルと言えるのは、やはり生徒の国籍でしょうか。

半分はアメリカ人でしたが、2割ほどは韓国人、そのほかカナダ人、オーストラリア人、イギリス人、コロンビア人、ベネズエラ人、ペルー人、中国人、日本人、などなど、

すごく国際色豊かでした!

【インターナショナルスクールの実態】目を疑うありえない5選

言語欲がムクムク

この頃はわたの言語に対する興味がムクムクと湧いた時期でした。

当初は全て英語で実施される授業についていくだけで精一杯で、あまり楽しいとは言えなかったのですが、同じクラスのペルー人のクラスメイトが、日本人の顔をしていながらスペイン語ネイティブな私に関心を示し、

いろいろと面倒を見てくれたり、ちょっかいを出してきたりしているうちに意気投合し、結局一番の親友にまでなりました。

当然その子とはスペイン語で話すのがお互い一番楽なのですが、原則として校内で英語以外の言語で話すことが禁止されていたので、先生が私たちに近づいて来るときは英語を話し、離れて行くとスペイン語で話す、みたいなことをしていました(笑)

イケナイ子ですね。

このときよく話していたのが、ある一文をスペイン語で話し始めて、英語で話し終え、英語で話し始めては、スペイン語で話し終える、みたいなスタイルでした。

例えばこんな感じ。


Le conté a mi mamá lo que hablamos ayer, y pues me dice que… (先生が私たちに近づいてくる) that I shouldn’t go to your house on Saturday because we would just be talking all day, which is apparently true, but… (先生が遠ざかる)pero igual le dije que tengo preguntas que preguntarte para prepararnos para el examen y a las finales, me permitió ir a tu casa.”

ピンクの下線部がスペイン語、水色の下線部が英語です。

文の途中でスイッチを何度も切り替えるようなイメージですね😎

それまでは日本語とスペイン語をそのように切り替えることは一切なかったので、結構新鮮でした。

日本語がSOV型の言語であるのに対して、スペイン語や英語はSVO型の言語であるため、英語スペイン語間では割と簡単なのですが、日本語スペイン語間でするのは困難なのです。

とにかくこの友達のおかげで学校にも馴染むことができ、英語の世界にもどっぷり浸かり、気づいたら日英西のトライリンガルになっていました。

マルチリンガルの頭の中っていったいどうなってるの!?

また同じ時期、わたがオススメする韓国語の記事でも触れましたが、クラスの2割を占める韓国人の友達から刺激を受け、独学で韓国語に手を出し始めた時期でもありました(笑)

マルチリンガルCottonが導く【韓国語】のディープな世界

次回、日本に帰国後〜大学を卒業するまでを描いた、バイリンガルが大学進学、そしてマルチリンガルになるまで②に続きます!

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